15-5.打つ手は無限なり
【常識を捨ててこそ】
『打つ手は無限』の世界をつかむ秘訣として、愚痴や泣きごとを言わない、つまりは 「明朗な考え方・生き方に徹する」ことの肝要を、さまざまに強調してきた。
最後に、もうひとつの奥の手として、「常識を捨て、視点を変えて見る」ことが、『打つ手は無限』の境地に至る最短距離であることに触れておこう。
◆反対が多いほど成功の秘密が

「打つ手の無限」詩碑(碑では、打つ手「の」とある)
意欲的・積極的・創造的に生きようとすればするほど、その行く手に立ちはだかる厄介なカベが、「常識」である。
ジョウシキの親類筋に当たるのが、良識・慣行・前例・轍・規格・形式・流儀・体裁・固定観念・・・などなど、凡人をがんじがらめに縛りつけているさまざまな旧弊である。
それらに囚われる人間ほど、その打つ手は貧しく、型にはまって限られてくる。地位・名誉・保身・利害などの虜になって柔軟な発想を放棄した人たちも、『打つ手は無限』とはやはり無縁の世界に住みついて省みようともしない人種だ。彼らは、いわば思考の動脈硬化症に罹っているようなものだから、自分で自分の道を常に狭く窮屈に限定している。
長太郎は、かつて『逆からの商売発想』(昭和53年、経済界刊)という本を出した。この書こそ、常識との訣別宣言ともいえる一冊であったが、その「まえがき」で次のように述べている―。
経営者には“カン”とか“閃き”とかが必要であり、時としてそれが企業の方向を定める舵にもなる。ふだん牛のようにオットリしている私にも時々その閃きがやって来ることがある。しかしその閃きもいざ具体化、そして事業化に結びつけようとすると大半の人達の反対にあう、それでも私はそれを貫き通してきた。
反対者が多ければ多いほど、その裏には成功の秘密が隠されているものです。
とかく現代人は、常識の枠からはみだすことを恐れ、当たり前の生き方に満足し、無気力な日々を送ることに慣れを感じてしまっているのではないだろうか?
貧乏漁師の倅で、学歴も資金もなく仕事を始め、決して金儲けの天才でもなければ商売の名人でもない私が、他人と同じことをやっていたとしたら、一介の漁師で終わっていたかもしれない。
◆知る人ぞ知る逆の妙境

「さあ ゆっくり ねむらうぜ」
長太郎家の墓碑(昭和48年建立)
「人の行く裏に道あり、花の山」という言葉がある。花の季節、有名な花見処ともなれば、どこもかしこも花を楽しむどころか人波にもまれに来たような感を呈す。しかし、名もない公園とか人影もまばらな裏通りには、案外知られざる花の名所が散在して、はるかに花をよく味わうことができるよ、というほどの意になろうか。
株の世界で相場師の間などでよく知られる格言で、人気株の陰に隠れた意外なところに有望な宝の株がひそんでいる、ということらしい。長太郎もまた他人とは違った視点から花の山を見付け、ひそかに楽しんでいた一人ではあるまいか。
「常識に従うだけでは、常識の仕事しかできない」と、長太郎は考えた。先の著のなかで、こうも述べている―。
「多くの場合、なぜ私は反対の方向へ行ったか。視点を変えて考えたからだ。習慣的思考を排し、そして辿り着いた結論が、第三者の目には“非常識”と映ったに過ぎない。」
「新しい事、攻める事、変化を求めることが大好き」だった長太郎にとって、常識にとらわれない非習慣的思考は、ごく普通に日常の中に息づいていた。だからこそ、「打つ手は無限」に生まれたのだ。
常識の世界にどっぷり浸かりこんで、その中にぬくぬくと安住しながら、棚からボタ餅式に「打つ手は無限」にころがりこむなどと期待するなら、それは天を冒?するものといわねばならない。
「打つ手は無限」とは、言いかえるなら、「常識を捨てよ」「視点を変えよ」と同義でもある。その真摯なる実践者のみに初めて授けられる「無限」の「打つ手」(霊感)なのだ。それは、正当な努力にたいする神のプレゼントといえるようなものかもしれない。
『打つ手は無限』の詩碑は、長太郎家の墓苑(船橋市馬込霊園)内に、「ゆっくりねむらうぜ」の墓碑とならんで建っている。
その前にたたずむと、「どうだい、驚いたかい。墓石までも型やぶりだろ。あの世でもおれは“打つ手は無限”の精神で、めっぽう愉快に生きてるぜ」という長太郎の声が地の底から聞こえてくるようである。
― 了 ―